スポーツ競技に取り組んでいる方なら、きっと「メンタルが弱い」と感じる場面があるでしょう。「どうしてこんなに緊張するのだろう」「練習通りにできたらもっと違ったのに」「なぜ普段通りにできないのだろう」「競った場面で力を発揮できたら良いのに」と、問いかけることはありませんか?あるいは、選手を応援している側の方も、「メンタルが課題だ」「メンタルが強ければもっとプレーが違うのに」と感じることもあるでしょう。今回は、「メンタル」について考えてみたいと思います。
試合前のプレッシャー
スポーツや競技に取り組み、一所懸命頑張っていればいるほど、試合でのプレッシャーはとてつもないものがあるでしょう。試合前には心の中には緊張が募り、ミスをしたりポイントが取れなければ焦りが押し寄せてきます。
メンタルに課題を感じれば感じるほど、「もしもメンタルが強かったら」と考え、なんとかメンタルを強くしようと考える方も多いと思います。メンタルを強くするための方法が何かあるのではないか、いかに攻略すべきか、と考えて試行錯誤されると思います。
メンタルのコントロールの難しさ
そのようにメンタルを課題と捉え、何か改善しようと考えた時、例えば、「リラックスする」「呼吸に集中する」「自信を高める」「イメージトレーニング」といった方法や、「アファメーション」「瞑想」という取り組みもあるかもしれません。
たしかにこういった取り組みに効果を感じる部分もあるかもしれません。
ですが、こういった取り組みをしても、なかなか試合で変化が感じれなかったり、改善が感じられない、という方もいらっしゃるのではないでしょうか。あるいは、緊張した場面に備えて何か対策を考えておいても、試合になると頭がいっぱいになってしまい、終わってから「こうすればよかった」と思う方もいるかもしれません。
「メンタル」、そして「心」を考えることは、一筋縄ではいかなそうです。もう少し深く、もう少し丁寧に考えてみる必要があるかもしれません。
曹洞宗からの教え
ここで曹洞宗の僧侶である藤田一照さんが書いた、「現代「只管打坐」講義」から、学びを得たいと思います。ここでは、「坐禅」を通して「心の安らぎ」や「安心」を求めて努力するあり方に対して、述べられていますが、スポーツにおける、試合で高いパフォーマンスを発揮するメンタルを求める努力やそのあり方に置き換えて考えてみてください。心に対するアプローチや何かを求める際の心のあり方という観点でご覧いただけたらと思います。
「坐禅としてやるべき仕事(task)、たとえば特定の姿勢を作り、特定の呼吸をして、特定の心理状態を現出させるといったことをいかに卒なく間違いなくやるか、いかに早くそれらの課題(task)を達成するかということに心を砕くことになる。task-centeredなあり方というのは、たとえば少しでもいい成績を取ることを目指す学校での勉強や、志望の大学に首尾よく合格することを目指す受験勉強の時のメンタリティと同じようなものである。そこでは成果や効率が最優先事項になっているし、どれくらい達成されたかが数値のようなはっきりした形で評定されるようになっている。」
現代「只管打坐」講義
「そのようなメンタリティで坐禅をしていると、そこで起きている現象のすべてがtaskに照らして是非、善悪、好悪といった尺度で常に測られる事になる。それはたまたまそうなるというのではなく、task-centeredな態度から必然的に生み出されてくる不可避的な帰結なのである。そのせいで、坐禅が「是、善、好」を引き寄せ、「非、悪(あく)、悪(にくむ)」を遠ざけようとするもがき、あがき、悪戦苦闘の作業になり、安楽の法門どころか凄惨な戦場のごとき様相を呈することになる。「自分が坐禅をうまくできているかどうか」ということに熱心であれば熱心であるほど、あるべき理想の坐禅と現実の坐禅の実際とのズレ、ギャップを見せつけられてどんどん落ち込む(「俺には坐禅なんか無理なんだ」「俺は坐禅に向いていない」「坐禅は難しい」「)か、逆に自分をさらに励まして(「まだまだ俺の努力が足りないからだ」、「もっと頑張ろう」「いつかきっとうまくできるようになるはずだ」)この坐禅という名のバトルにますますのめり込んでいく」
藤田 一照 (著)
とあります。
まさに、メンタルが課題と捉え、メンタルを改善しようとする時と同じではないでしょうか。
「集中する」「良いパフォーマンスを発揮する」「落ち着く」「平常心で取り組む」といった課題「task」を求めれば求めるほど、メンタルが弱い状態を遠ざけようとしたもがきにつながり、自分のメンタルの弱い状態を見せつけられますし、また、そこが気になってしまいます。そうして熱心であればあるほどどんどんと理想とのギャップを見せつけられて、「自分は弱い人間なんだ」や「もっと努力すればできるはずだ」という終わりのないバトルにつながっていくのかもしれません。
では、どうしたらよいのか、と考え始め、このtask-centeredなあり方が問題なのであれば、それをやめてみよう、なくしてしまおうと考えがちですが、そこに対しても注意を促しています。
「task-centeredな構えが解ける、脱落するということは、そういうあり方を相手取ってそれを変えよう、なくしてしまおうとする努力の結果としてではなく、むしろその逆でそのようなあり方をそのまま受容し、思いやりのある注意(caring attention)を注ぐというハートに由来するheart-centeredなアプローチで初めて起こるのである。」
このように提案されると、ともすると、「では努力しないほうがよいのか」や「そのまま何もしないということか」という考え方につながる方もいるかもしれません。
結論を急がずに、もう少し「メンタルを改善する」という取り組み方や、あなたが自分自身で取り組んできたこれまでを振り返り、落とし込んで、あてはめて、一緒に考えてみましょう。
課題を抱える自分を受け入れる
「メンタルが課題」と考え、何かしらそれに対して改善を試みた方なら経験があると思いますが、心が思うことをなんとかコントロールしようと思っても、そうそうコントロールできるものではない、ということに気づきませんでしょうか。
どんなにリラックスしようとしても、呼吸をコントロールしようとしても、アファメーションをしても、緊張はしますし、自信はありませんし、不安にはなるものなのです。
(これは、決してこういった努力を否定するわけでは有りません。そのような姿勢があり、そのような問題意識や取り組みがあったからこそ、見えてきているものです。)
こうして捉えてみると、コントロールしようと思っても、どうしてもそうなってしまう、そういう感情が起きてしまうのが、「自分」なのです。
ですので、そのような自分を否定し、コントロールしようとしても、それは自分から自然に沸き起こってしまうものであり、自分の一部なので決してなくならない、ということに気づかされます。
別の言い方をするならば、それは「影」のようなものと捉えてみてもよいかもしれません。
あなたの影は常にあなたと共にいて、常にあなたに寄り添っています。どんなに影を消そうとしても、走っても、戦っても、影は常にいて、影は決してなくならないものなのです。
影が決してなくならないものであり、不安になりメンタルが弱いのが自分であると気づくと、そこでできることは、その自分で一所懸命戦うと言うことに尽きると思います。
影を受け入れ、影が自分の一部であると理解して、影と一緒に戦うと決めることです。
このように受け入れたとき、そのような弱い自分が出てくること、影がいることを「前提」として捉え、そういう自分が出てくることに備えて準備をしようという試みが起きてきます。たとえば、試合でそういう自分が出てくることが「当たり前」になり、そしてそういう自分が出てきたときに「あ、また出てきているな」と気づき、そのような自分が出てくることが常であると捉え、まさにそのようにして「平常心」で戦うことができるようになります。
影を消そうとしたり、影をいないものとして捉えるのではなく、影と一緒に戦う、という新しい視点で捉えるのです。
そのような視点で捉えられるようになってくると、「メンタルが弱い自分」が課題では無くなってくるので、課題task自体が消滅してしまうという現象が起こり始めます。
課題を乗り越えるための新しい視点を
今回は、「メンタルが弱い」と捉えているその捉え方について考えてみました。
スポーツの試合におけるメンタルの課題は、誰もが体験するものです。そして、色々な意見や考え方、取り組み方があると思います。この考え方・捉え方が正しいとは限りません。ぜひご自身で取り組み、振り返り、観察し、考えながら、何が正しいのか、どうすべきかを試行錯誤してみてください。またメンタルについては触れることもあると思いますが、この記事が何かしらの参考になれば幸いです。