
変化を育てるフィードバック ― 軌道修正のための関わり方
「過程を認めるフィードバック」が注目されています。結果だけでなく、努力やプロセスに目を向けることで、選手の内発的動機づけや自己肯定感を支えるという考え方です。しかし、それだけで十分でしょうか?
近年、スポーツや教育の現場では「結果ではなくプロセスを認めるフィードバック」が注目されています。試合の勝敗やスコアだけでなく、日々の取り組みや考え方、工夫のプロセスに目を向けることで、選手自身の内発的動機づけや学びの主体性を育むという視点です。
このような変化の背景には、「結果だけを評価されると、失敗を恐れて挑戦しにくくなる」「目に見える成果が出るまでの過程にこそ成長がある」という認識の広がりがあります。とくに、変化の速い現代社会では、結果よりも“変化を生み出せる力”の方が重要視される場面が増えてきました。
だからこそ、プロセスを見つめ、そこに対して適切なフィードバックを届ける力が、指導や育成の現場でますます求められているのです。
この記事では、単なる励ましに留まらず、変化を生み出すためにフィードバックがどういうものであるべきか、そのあり方について、いくつかの視点から掘り下げていきます。
努力を見守るだけで十分?
「過程」や「プロセス」に対するフィードバック、というと、選手が努力している姿を見れば、つい「頑張ってるね」「続けててえらいね」と声をかけることと考えます。努力を見守り、認める関わりは、安心感や信頼を生む土台となるからです。
一方で、こうした声かけが繰り返されると、「努力してさえいれば認められる」「結果が出ていなくても、頑張っていれば良い」という構造をつくってしまうことにもつながり、「何をどう変えていくか」よりも「努力している自分を認めてほしい」という傾向が強まってしまうことがあります。
大切なことは、選手が成長することであり、成長に向けた変化が生まれることにあります。そのように考えると、過程やプロセスに対するフィードバックをもう一歩進めて、選手や生徒の取り組みが変化につながっているかどうか、成長につながっているかどうかを含めてフィードバックをする視点が必要かもしれません。取り組みのプロセスが変化につながっているときには、その変化を具体的にフィードバックすることで、良い方向の変化をさらに強めていくことができます。反対に、プロセスが変化に結びついていない場合には、その点をフィードバックすることで、取り組みを工夫する方向へとシフトさせるきっかけになります。
フィードバックと評価の違い
「フィードバック」というと、「良かった」「悪かった」という評価と捉えられる場合がありますが、フィードバックと評価は異なるものです。評価は、ある基準に照らして優劣や達成度を判断するもので、評価が行われるとそれを受け取る側には“評価されるために頑張る”という外発的な動機が生まれやすく、努力をフィードバックをする側の基準やものさしで測ることになります。
一方で、本来のフィードバックは、気づきを促し、変化を支え、次の取り組みにつながるためのものであると考えます。評価のように優劣をつけるのではなく、変化を観察し、それに意味を与え、変化を生み出していくものです。
指導の場において、指導者は知識・経験・年齢の面で自然と主導的な立場になります。これは学びを導くうえで重要な役割ですが、一方で生徒や選手が素直に指導者に従うほど、指導者が謙虚に自分自身を強く律していなければ、無意識のうちに、自分の評価基準で生徒を見て、自分の評価基準に沿う選手を評価する、といった危うさにつながってしまいます。
本来は、自分で考え、自分で自分を評価し、自ら成長していける存在になることこそが育成の目指す姿であるはずが、そのような視点がフィードバックに入ってしまうと、生徒や選手もまた「先生・指導者に認められること」を目的となり、努力の方向が誤った方向に向いてしまいがちです。
フィードバックの動機
ここまで見てきたように、フィードバックは単なる努力の承認や結果の評価ではありません。本来あるべきフィードバックは、選手の意識や行動を丁寧に認め、良い変化が生まれているかどうかを具体的に示し、最終的には選手自身が自分の変化を自分で見つけ、意味づけられるようになることを支える営みだと考えます。
では、フィードバックを振り返る時に確認したいのが、フィードバックを行う側の動機です。相手を思い通りに動かしたいのか、それとも本当にその人の成長を願っているのか。その違いは、言葉の選び方やタイミング、関わり方の温度感に表れます。
また同時に、フィードバックを受け取る側の動機や姿勢がどのようなものであるかを観察することも必要です。たとえば、先程触れた「努力していればよい」という構造を例に取ると、こちらが意図せず素直に「過程に対するフィードバック」を行っていたとしても、成果主義や失敗回避傾向が強い環境生まれ育った選手が受け取ると、結果が出なくても“努力していることを認めてくれる”という受け取られ方をしてしまう恐れもある、ということになります。
つまり、同じ内容のフィードバックであっても、それをどんな心構えで伝えるか、そしてどんな心構えで受け取るかによって、その伝わり方や意味、効果は大きく変わってきます。
気づきを支える「鏡」としてのフィードバック
フィードバックは「鏡」のようなものとも捉えられます。鏡が映すのは作られた映像ではなく、その人のありのままの姿を映し出します。同じように、フィードバックも主観的な評価や感情ではなく、その人の事実や変化をそのまま映し出し、ときには本人が見たくない自分の姿もそのままを見つめられるようにすることで、自分自身を客観的に見つめることができます。
禅や仏教には、「ただ観る」という教えがあります。評価や善悪の判断を一切加えずに、その人の今この瞬間の状態を静かに観察する在り方です。このように観察し、ありのままの姿を伝えるフィードバックは「変えさせる」ための手段ではなく、「気づきに導く」ための関わりに変わります。
このように気づきを導くやり方は、遠回りなやり方に思われるかもしれません。ですが、勝負の場に挑む時、選手は一人で自分の力で自分を奮い立たせなければなりません。その時、一つ一つの行動を自分の力で選び、自分自身の言葉で意味づけていく力がなければ自分のことを支えることができません。誰かの評価ではなく、自らが見た事実に基づいて判断し、次にどう行動するかを決める。その内的なプロセスを支えるには、外からの評価ではなく、内側の気づきを促すような関わりが必要ではないでしょうか。
共に映し出される課題という視点
選手の行動や状態を観察し、課題や改善点が見えてきたとき、それは指導者が一方的に指摘するものではなく、選手と指導者との“共通の課題”と捉えることがで、教える側と教えられる側、という関係を越えていきます。たとえば、練習の中で集中力が切れる場面や、判断が遅れる場面があったとき、それは選手だけの課題として捉えるのではなく、指導者も同じ目線で「ともに取り組む課題」として受け取り、向き合っていくことです。共に観察し、共に言語化し、共にどうすればよいかを考えることで、フィードバックは指導者から選手への一方通行ではなく、「対話」に変わります。
おわりに
がんばっているのに結果が出ないとき、支える側はつい「努力してるから大丈夫」と励ましの言葉をかけてしまいがちです。しかし、それでは変化のきっかけを逃してしまうこともあります。
「変化が出ていないことを伝える」のは勇気のいる関わりですが、それを恐れず、「どうすれば変えられるか」を共に考えることこそ、粘り強さや主体性を育む道筋になります。
フィードバックの目的は、安心させることではなく、前に進む後押しをすること。
“変化を見て、伝えて、育てていく”
その姿勢が、選手の内側に「自分で変われる」という実感を積み上げていきます。