
正そうとするほど、なぜ空回るのか
指導者であれば部活動で、先生であれば教室で、保護者の方であれば家庭で、子どもや生徒と関わる時、想い入れが強くなればなるほど、その取り組む姿勢や態度を目にして、つい感情が乱されてしまったり、「ちゃんとしなさい」と、強い声が出てしまうことはないでしょうか。集中を欠いていたり、だらだらと過ごしていたり、何度言っても改善しなかったりするありようを目にして、怒りたくないのに、いらだちがこみ上げ、声を荒げてしまう、あるいは、表には出さずとももやもやしてしまう。
そのようなとき、私たちは、平静を装って、指示を出したり、注意を促したり、ときにはルールをつくって、あらためさせようとします。しかしなかなか聞き入れる姿勢が見られなかったり、また少しすると同じことを繰り返してため息をついたりすることもあるでしょう。
私はこれまで、競技の指導を通して、また自分自身に対して、「動きやパフォーマンスは、どうすれば変わるのか」を問い続けてきました。その過程を通して実感したのは、外から見える形をなぞるだけでは、動きの本質は変わらない、ということです。フォームや型は、その奥にある「動きの質」が表に現れたものにすぎず、その質には、本人が内側で何を感じ、何を意図し、考えているかが映し出されています。そのため、質が変わらないまま見た目だけを整えても、動きの強さや正確さ、再現性といった結果には結びつかないことを実感してきました。
そして、質へ働きかけるための本人の意図や考え方への関わりは、ただ単に動きやパフォーマンスへの変化だけでなく、その振る舞いや物事への考え方・捉え方への変化にも表れるものでした。そのような体験から、練習への取組姿勢や生活態度といった、人が何かに取り組む姿も同じように、外から形を整えさせるだけでは本質的な変化は生まれず、その奥にある本人の感じ方や考え方が動くことで本質的な成長が生まれるものであり、整って見えることと、内側で何かが育っていることとは、必ずしも同じではないのではないか、と感じています。
そして、相手の内側の質に働きかけるためには、こちらも自分の内側の質が問われてくる、ということです。どのような意図で、どのような気持ちで、どのような考えで、その子に向き合うのか——働きかける側の状態が相手に伝わるので、自分の内に怒りやもやもやを抱えたまま、それを表に出すまいと平静を装って関わったとしても、奥にある自分の状態も相手には伝わるものです。本当に伝わる関係を築こうとするなら、自分自身がどのような状態で相手と関わるか、と向き合うことが必要とされるのではないでしょうか。
この文章では、指導者と生徒、先生と生徒、親と子──大人が子どもに何かを教え、育てようとする、あらゆる場面で生まれがちな「いらだち」を手がかりに、関わり方を考えていきたいと思います。
第一部|私たちは、何を「正そう」としているのか
生徒や子どもに接する時、たとえば、伝えたばかりのことを、聞いていないかのように聞き流される、何度も同じ注意をしているのに、また同じことが繰り返される、こちらは段取りを整えて待っているのに、準備にだらだらと時間がかかっている、そうした場面で、私たちの中にいらだちや感情的なもやもやしたものが立ち上がります。
このように書き出してみると、いらだちが立ち上がるのは、多くの場合、目の前の姿が、自分のなかの「こうあるべきだ」という思いから外れて見えた、その瞬間であることに気づかされます。だとすれば、感情に向き合うための第一歩として、この「ちゃんと」や「あるべき姿」は、そもそもどこから来ているのか、考えてみたいと思います。
子どもたちの視点に立って日々の生活を眺めてみると、「こうすべき」ものに満ちていることに気付かされます。大人から見ると当たり前のことですが、朝は決まった時間に起き、学校では時間割どおりに動き、姿勢を正し、宿題は期限までに、忘れ物はしないように。家に帰れば、早く宿題を、ゲームはほどほどに、片付けなさい、と。「こうすべき」には、言葉ではっきり告げられるものもあれば、口には出されないまま、暗黙のうちに守ることを求められるルールや規範もあります。学校でも家庭でも、子どもは、明に暗に、「こうすべき」「こうあるべき」という声に、たえず囲まれているのではないでしょうか。
当たり前のことですが、「こうすべき」という前提には、「理想の姿」があります。だらだらしていること自体が問題とされている、というよりかは、「集中して取り組むべきだ」という“あるべき姿”と照らし合わされて、はじめて「正すべき対象」として浮かび上がってきます。言いかえれば、私たちは、目の前の子どもそのものを見ているようでいて、実は、自分のなかにある“あるべき姿”と常に照らし合わせているのかもしれません。
では、その「あるべき姿」は、どこから来るのでしょうか。それは当たり前のこと、当然のことのように捉えられがちですが、時代や社会が変わればその姿が変わることを考えると、それは私たちが、生まれてから今までの間に接してきた価値観で成り立っていることに気付かされます。また一方では、きちんと振る舞い、うまくやっている様子を目の当たりにしたり、成功した教え方、「こうすべき」という育て方等、スマートフォンやメディアからは、理想的な子育てや、のびのびと才能を伸ばす子どもの姿が絶えず流れてきます。そのようにして、私たちは自分の中での「あるべき姿」を作り上げ、その姿と目の前の子どもを比べて見ているのではないでしょうか。
同時に、私達自身の中にもまた、変化のスピードが年々増し、いまの仕事や価値観がこの先も通用するだろうか、と問われる時代のなかで「このままでいいのだろうか」「何か足りないのではないか」という不安を抱えています。教育の議論でも「予測困難な時代」という言葉が使われる中で、私たち自身の中にある不安が、せめて子どもには“正しいとされていること”を身につけてほしいという願いに変わり、そして「あるべき姿」でない姿に対する焦りを加速させているとも見ることができます。
そのように考えると、子どもたちは、言葉そのものだけでなく、その奥にある不安や焦りも一緒に受け取っているのではないでしょうか。
だからこそ、子どもたちの「主体性が大事」とも言われています。たしかに主体的な姿勢は大切ですが、子どもに「どうしたいのか」「将来どうなりたいか」と問うとき、その言葉とともに、「答えを持っているべきだ」「目的を持って取り組んでいないことは良くないことだ」という意味も一緒に相手に届いていないでしょうか。さらには、その「目的」や「やるべきこと」が、大人や社会が価値を認めるものでなかったとき、それも認めて受け止める姿勢でいるでしょうか。
このように考えると、「こうあるべき」に囲まれ、大人が抱える不安や焦り、あるいは言葉の裏に存在している前提と接している子どもが、だらだらしたり、ぼんやりと過ごす姿は、部活動の合間や、家でのなんでもない時間、といった「あるべき」から少し解放された、力が抜けている場面で本来の姿を出せている、とも捉えられます。もちろん理想は、メリハリを持って生活する態度であったり、あるいは自分で考えながら取り組むことかもしれません。けれど、形だけ整えられて内実の伴わないかりそめの姿よりは、本来のありようで振る舞えている──そう見ることもできるのではないでしょうか。
変化や成長という観点で自分自身を振り返っても、私は比較的従順で、「こうすべき」に従って行動するタイプでした。しかし、外から見れば、従順に真面目に取り組んでいるようでいて、その実ただこなしていただけであったので、ただ力んでがむしゃらに取り組んだだけで、結局変化にも成長にも結果にもつながらなかった自分自身の体験を踏まえると、「あるべき姿」を求める関係性では、教える側も教わる側も疲弊していくだけではないかと感じます。
では、どのように関わることがよいのでしょうか。
第二部|関わり方を、問い直す
生徒や子どもと関わるなかで、相手の姿勢を前にして、私たちがまず考えるのは、「こういうとき、どう対応したらいいのだろう」という問いではないでしょうか。集中を欠いていたり、だらだらと過ごしていたりする——その場をなんとかする、良い方向へ導くためにどうすることがよいのでしょうか。
どう対応するか——正しさや権威で、本当に伝わるのか
そうした場面で取られる対応として考えられるものがいくつかあります。つい取ってしまうのが、怒って正すこと。声を張り上げてしまうこともあれば、表には出さずとも、内心でいらだちながら冷静を装って、その場をあらためさせようとすることもあるでしょう。あるいは、理屈で説くこと。漫然と取り組む姿を見て、「時間を大切に使うべきだ」といった正しさで行動を律しようとする場合もあるでしょう。または、指導者という立場や、決まりごとの権威を背景に従わせるという対応もあります。
怒りといった感情で相手をコントロールしようとすることが適切でないことは言うまでもないかと思います。理屈で理解させようとしたり、あるいは立場や権威で対応するとき、たしかに、その場の行動を、ひとまず変えさせることはできるかもしれません。けれど、そうして整えられた形は、本当の意味での理解——生徒自身が納得し、内側から動きだすこと——につながっているのでしょうか。
理屈で正しさを突きつけられたとき、そこで起こるのは、「でも、それを言うなら」という理屈のぶつけ合いや、「うるさいな」という反発、あるいは「別に、自分はそれで構わない」という開き直りへとつながる可能性があります。ときには黙り込むこともあるでしょう。行動が変わったように見えたとしても、形だけで従っているありようと、納得して理解したありようはまるで違うことは言うまでもありません。立場や権威で従わせる場合においても、上下の関係を押し出せば行動は変わるかもしれませんが、変わるのは表に見える形だけとなり、むしろ力で従わされたという感覚だけが残り、「正しさとは、力を持つ側が決めるものだ」という、別の学びを手渡してしまうことすらあるように思います。
どの対応も、その場の形は変えられても、生徒の内側にあるもの——本人が感じ、考えていること——までは、届かないのではないでしょうか。
「どうするか」から「どうあるか」へ
なぜ、こうした対応が相手には届きにくいのでしょうか
私たちは、「何」を言われているかだけでなく、「誰」が言っているかによって、受け取り方を変えています。そして、その「誰」が、どんな感情や状態にあるかも、受け取り方を左右しているのではないでしょうか。
「時間を大切にしよう」という言葉も、こちらが焦りやいらだちを抱えていれば、内容よりもその焦りやいらだちが伝わります。立場を押し出せば、伝わるのは“正しさ”ではなく、力で押さえようとする姿勢であり、怒りをぶつけられれば、その怒りを受け取ってしまいます。正しい理屈も、立場も、それを差し出す自分の状態を通して相手に届くと考えられます。
逆に言えば、たとえ表現はつたないものでも、それが落ち着いた、ひらかれた自分から出たものであれば、相手の心には届きやすいものになるのではないでしょうか。言葉が届くかどうかを分けているのは、理屈の精度ではなく、それがどんな状態の自分から発せられているか、なのだと思います。
だとすれば、問いのかたちそのものも、少し変わってきます。「どうするか」——相手をどう動かすか——だけでなく、「どうあるか」——自分がこの場に、どんな状態で在るか——と向き合うことで、相手に届くものが変わってくるのではないでしょうか。
では、たとえばある時は怒りが出てきてしまったり、ある時はやるせない気持ちになったりする、どうにもこうにも生まれてしまう「自分の状態」は、はたしてどのようにして「この自分」になってきたのでしょうか。
怒りや感情は、どこから来るのか
感情や自分の状態を問い直すと、同じ場面を前にしても、心が波立つ人もいれば、そうでない人もいることに気付かされます。もしそうなのだとすれば、感情は、生徒の振る舞いそのものから自動的に生まれているのではなく、自分のなかに、それに反応する何かがあるからこそ、生まれているのではないでしょうか。
私たちは、幼少期から社会や環境から様々な影響を受け、今の自分が形作られてきました。自分の中にある価値観や、正しさ、常識、判断基準、その多くは、まっさらな自分の中から湧いて作られたものではなく、周囲から受け取ったり、あるいは拒絶することを通して、自分の中に形作られてきたものです。そして、自分の中にある正しさや価値観に触れるできごとが起きると感情が揺れ動かされる、と考えることはできないでしょうか。
そのように感情を捉えてみると、感情が動いた時に、自分の内側に何が起きているのか、を見つめ、自分にはどのような正しさがあるのか、どのような価値観があるのか、どのような常識を良しとしているのか、が明らかになることで、相手との違い、という視点で捉えていくことができるのではないでしょうか。
「正しさ」が乱されている
たとえば「練習とはこうあるべきだ」「部活動とはこういうものだ」という活動そのものへの正しさや、「指導者の言うことには従うべきだ」という関係のあり方への正しさがあるかもしれません。きびきびと動き、集中して取り組むのが当然だ、という正しさや、自分の伝えたことはその通りに動くべきだ、という正しさのフィルターがあると、だらだらと指示に従わないありようを見た時、自分の正しさを乱されるものとして映ります。
このような「正しさ」は、「あるべき姿」あるいは「常識」や「守られて当然なもの」と言い換えることもできますが、こうした「正しさ」は時代や状況によって変化するものでもあります。そのように考えると、それらは普遍的なものではなく、その時その状況において社会一般で「正しい」とされ、その社会に関わるそれまでの人が大切にしてきた生き方であり、価値観が表れているとも言えます。
そして、自分が一生懸命に積み上げ、大切だと感じているものほど、それが軽んじられているように扱われたとき、強い反応につながります。自分が選手だった頃に厳しく対応され、自分を強く律しようと努力してきた人ほど、ダラダラした空気に強く反応してしまっているのかもしれません。
「ないがしろにされている」悲しさ
また、「ないがしろにされている」という、悲しさもそこには存在しているのかもしれません。自分がこれまで大切にしてきたことを蔑ろに扱われたり、自分が支えにしてきた価値が軽く扱われているように感じた時、表に現れるのは「怒り」という形かもしれませんが、その奥には「悲しさ」も混ざっているのではないでしょうか。怒りは強く外に向かう感情なので、自分でも気づきやすいものですが、実はその奥にはそうした悲しさもあるように思います。
悲しさは、裏を返せば、その場や相手を大切な存在と捉えており、その場や相手によって自分が大切にしている価値観を共有してほしい、認めてほしい、と願っていた、という見方もできます。どうでもいい相手であれば、悲しくなることもないはずです。伝わってほしかった、受け取ってほしかった——そうした期待があるからこそ、それが届かなかったときに、悲しさが生まれるのではないでしょうか。
期待とのずれ
こちらが抱いている「期待」とずれが生じたときに感情が動くこともあります。私たちは、伝えたことは聞き入れられるはずだ、教えたことはできるようになるはずだ、という期待を相手に対して知らず知らずのうちに持ち、それが満たされないと、いらだちを抱いてしまいます
ただ、冷静に考えてみると、この「はず」はあくまでこちらの側が考えているものにすぎません。何を大切にするのか、いつそれをわかってくれるのか、いつ行動で表してくれるのか——その見立ては、いわば自分にとっての正しさであって、相手が同じように捉えているとはかぎらず、相手には相手の歩みや、感じ方があります。だとすれば、期待とのずれとは、つきつめれば、自分の側の正しさと、相手の側の正しさとのあいだに生まれているずれ、とも言えるのかもしれません。
そして、正しさがそれぞれに違うのだとすれば、その二つのあいだに共通の理解がすぐになされるのでしょうか。自分の正しさが、これまで少しずつ育まれてきたように、相手の正しさもこれまでで育まれてきたものであるならば、その共通理解は簡単になされるものではありませんし、もしそれが実現するとしてもどうしても時間がかかるものでしょう。
では、なぜ私たちは「すぐに」なされることを求めてしまうのでしょうか。そこにも、「すぐにできていなければいけない」という「正しさ」があるように感じます。「今できていないといけないのではないか」ーーそうした不安から、「早くできるようにさせなければ」という焦りと期待へとつながっているのではないでしょうか。だとすれば、いらだちの源は、こちらが抱えている「早くしなければ」という焦燥感のほうにあるのかもしれません。
このように感情を考えてみると、たしかに感情自体はいま目の前の出来事に対して生まれてはいますが、それがいきなり生まれたものではなく、自分がこれまで生きてくるなかで、少しずつ育まれ、携えてきたものに根ざしている、ということが見えてきます。
自分の中の「正しさ」は、生まれ持ったものではありません。「何事も手を抜くな」「私語は慎め」「目上は敬え」——こうした「こうあるべき」を、私たちは長い時間をかけて、教えられ、ほめられ、時に叱られながら、自分のなかに積み上げてきました。「すぐに」という期待も同じで、私たち自身が、いつまでに成果を出すのか、どれだけの速さで伸びるのかを問われ、ときには自分の成長や変化のペースを超えた速さを、まわりから求められてきたのではないでしょうか。
そうした体験が、いつのまにか、目の前の生徒にも同じ正しさを求めるようになっているのかもしれません。かつて自分がせき立てられたことや、自分が大切にしている正しさを「認めてほしい」「受け取ってほしい」という思いがありながら正しさを強いられてきたことが、感情としてにじみ出てくるのではないでしょうか。
感情を、どう扱うか
では、そうして見えてきた感情はどうしたらよいのでしょう。
感情は抑えるべきだ、という考え方もあるでしょう。しかし、感情自体は確かに感じたものですから、それを否定することは、自分自身を否定し、その感情が形作られてきた過去を否定するように、自分で自分をないがしろにすることになるのではないでしょうか。もしも、そうであるならば、感情が生まれている構造自体は変わらないままなので、同じような状況で、また同じ感情が生まれることになります。
だからといって、感情のままに表すことは言うまでもなく避けるべきことです。感情をぶつけたら、その場では解消されたように見えても、感情が生まれる構造自体は変わりませんし、感情をぶつけられた側には、行き場のない感情が生まれていきます。考えるべきは、感情を出すか、抑えるか、ではなく、その感情をどう扱うか、ということなのだと思います。
まさに、感情が生まれている、その瞬間に、湧いてきた感情に飲まれてしまうと、その感情のやり場を「自分」や「相手」に結論づけてしまいがちです。「自分が変わるべきだ」「自分が悪い」と考えたり、「相手が変わるべきだ」「なんで理解してくれないんだ」と考えてしまいます。この生まれてきた感情を、私たちは自分のもののように感じてしまいますが、自分が生まれたときから備わっていたものなのかというと、そうではなく、さまざまな関係のなかで形づくられてきたもののはずです。
感情も、「こうあるべきだ」という正しさも、生まれ持ったときから持っていたものではなく、これまでのさまざまな関係のなかで——教えられ、ほめられ、叱られ、受け入れられ、あるいは拒まれながら——形づくられてきた、一つの「出来事の産物」と捉えてみると、それがもしも、過去の関わりのなかで育まれてきたものであるならば、これからの関わりのなかで、少しずつ変わっていきうるものでもある、ということができます。だとすれば、問いは、「この感情は誰のせいか」「どちらの正しさが本物か」ではなく、「これから自分は、相手とのあいだに、どんな出来事を、どんな感情を、どんな関係を、育んでいきたいのか」と、問い直すこともできるはずです。
そして、私たちは、自分を中心に据えて周りを見渡すと、自分は周りから影響を受ける存在ですが、逆に周りが中心であると見据えてその周囲を見渡すと、自分がその周りに対して影響を与える存在であるということができます。つまり、自分自身が周囲の環境から影響を受けてきた存在である、ということは、目の前の生徒・子どもにとっては私たち自身が「環境」であり、「影響を与える存在」なのです。
このように問いを向け直すことは、その関係を引き受ける行為なのだと思います。過去に形づくられた自分の感情やフィルターを言い訳にせず、かといって相手を変えようとするのでもなく、この関係に対してどうありたいかを自分で引き受け、相手を前にした時にどう捉える自分でいるかは自分で決める、という決意とも言いかえることができます。
自分は正しいかもしれないし、正しくないかもしれない。相手もまた、同じで、そもそも何が正しいのかはわからない、そうした謙虚な姿勢で、自分のなかに起きた感情を、自分だけのせいにも、相手だけのせいにもせず、二人のあいだに起きた一つの出来事として捉え、この場を、この関係を、これからどうしたいのかを、お互いで関わり合って作る。そうした姿勢によって、相手が変わる保証はありませんし、こちらの対応を相手がどう受け取るかは、わかりません。しかし、そのような姿勢で自分のあり方を自分で決める一歩を踏み出すことを通して、まず自分自身のありようを自分が肯定的に捉え、そして時にそのような関わり方によって相手にも変化が見られた時、そこには大きな喜びが感じられるのではないでしょうか。
結び|ないがしろにしない、ということ
感情というのは、ともすると、そこから目を背けたくなったり、あるいはその渦のなかに飲み込まれてしまったりするものです。できれば波立ってほしくない、厄介なもの、と感じることもあるかもしれません。けれどそれは、自分がこれまで、何を受け取り、何を大切にしながら歩んできたか——その道のりが表れたものでもあります。
だとすれば、その感情を、なかったことにしたり、あるいは感情と力で相手をねじ伏せたり、誰かへぶつけて手放したりすることは、自分が確かに感じたものを——ひいては、そうやって歩んできた自分自身を——粗末に扱うことでもあるのかもしれません。逆に、その感情を、抑えもせず、ぶつけもせず、「これはどこから来たのだろう」とていねいに見ることは、自分を、そして自分の歩みを、大切に扱う、ということです。
そして、自分の感情をそのように扱う体験は、目の前の相手の行動や感情の背景に思いを馳せる想像力となり、自分を大切にすることと同じように相手や相手の感情も大切にすることに行き着くのではないでしょうか。そうした姿勢で発する言葉は、たとえ表現はつたないものでも、相手の心へと届き、この場の空気を少しずつ変え、関係性が変わっていくかもしれません。
「自分だけでは整理しきれない」と感じたら、「じょうたつの学校」をご利用ください。「じょうたつの学校」は、フィジカルスポーツからe-sportsまで、競技や年代を問わず、選手とその保護者、指導者の方に向けた個別のスポーツコーチングサービスです。一人ひとりの状況をうかがいながら、いま何に取り組むべきかを一緒に整理し、実践し、成果が出るまで伴走していきます。競技を問わず使える上達の地図を手に入れることで、競技生活以外の場面でも感情のコントロールや目標達成の方法、周りに流されずに自分のやるべきことに集中して取り組むことへとつながっていきます。