教えが届くために何が必要かを考える

1.なかなか変化が感じられないとき

練習のあとに選手に、「さっきのあの場面、もう少し早いタイミングで動けると変わるよ」。選手はうなずいて「わかりました」と言う。でも次の練習でも、また同じタイミングで動いている。

もう一度伝えます。「そこ、さっきと同じになってるよ」。「はい、意識してみます」。しばらくして、やはり変わらない。

こういうやり取りを何週間か繰り返したとき、あなたはどう思いますか。

「何度言ってもわからないのだろうか」「自分の伝え方が悪いのだろうか」——そう感じる人も多いはずです。あるいはこう思う人もいるかもしれません。「この選手とは相性が合わないのかもしれない。指導の方法は人によって違うし、最終的には本人が選ぶしかない」と。

この「相性」「最後は本人次第」として片付けることを私も行っていました。たしかに相性というものはあると思いますし、当然選手が最後は判断するべきものでもあると思います。

ただ、一方で、そうした選手が同じ課題を抱えたまま試合に臨み続けるということは、同じ課題で負けていくことが繰り返される、ということになります。そのように考えると、「相手の選択だから」と手を引くことは、改善されない未来を黙って見ている、ということでもあります。指導者がその未来を知りながら何もしないのは、本当に選手の成長のためになっているのでしょうか。

もちろん、強引に押しつけることが正解だとは思いません。ではどうすればよいのか。立ち止まって考えてみたいことがあります。

なぜ選手は、アドバイスを選ばなかったのでしょうか。

「伝わらなかった」「理解できなかった」「素直さが足りなかった」——そう考えることもできます。しかし本当にそうでしょうか。もしかすると、選手にはなにかしら「選ばない」背景があったのかもしれません。

では、どのようにして選手は自分に対するアドバイスを選んでいるのでしょうか。


2.アドバイスが変化に結びついていない背景

まず考えてみたいことは、選手が本当に「理解」したうえで、アドバイスを選んでいるのかどうか、ということです。「理解」という言葉の中には、実はいくつかの異なる状態が混在していることがあります。「言われていることの意味はわかった」という状態もあれば、「なぜそれが自分に必要なのかまで腑に落ちた」という状態もあります。さらには「それをやり遂げることが自分にできるのかどうか」「やってみてうまくいくかどうか」まで見えて初めて、本当の意味で「理解した」と言えるのかもしれません。

たとえば「力を抜く」という言葉を考えてみてください。指導者が持っている「力を抜く」感覚と、選手が「力を抜く」の感覚は、同じものと言えるでしょうか。同じ言葉を使っていても、二人の頭の中には異なる感覚が浮かんでいる可能性があります。

そのように考えると、選手が「わかりました」と答えるとき、果たしてそれはどこまでの「わかった」なのでしょうか。その確認をしないまま「伝えたから、あとは本人次第」とすることは、本意が本当に伝わっていると言えるのでしょうか。

動きが変わるとは、その人の「常識」が変わること

このように考えると、同じ言葉であってもその言葉が指し示す感覚の実体は、人によって異なる、ということがわかってきます。

動きの感覚は、これまでのそれぞれの経験と反復の中で、「自分の動き」が身につき、それがその選手としての「当たり前」「普通」として、「常識」になっています。

そのような状態に対して、アドバイスがされたとき、選手はその「常識」を通して理解しようとします。「言っている意味はわかるけど、やってみると違和感がある」「前にそれを試したら余計ひどくなった」「なんとなく自分には合わない気がする」——これらは素直さや理解力の問題ではなく、自分の中に根づいた「常識」を通して、判断している、と捉えることができます。(関連記事:フォームを直しても上達しない本当の理由コツをつかんでも、元に戻る。その繰り返しが起きる本当の理由動きは思考のプログラムである——形の背後にある意図の構造

指導者にも、自分の「常識」があります。「力を抜く」とはどういう感覚か。「タイミングが早い」とはどういう体の状態か。指導者がアドバイスとして伝える言葉は、指導者自身の長年の経験の中で積み上がった「常識」から来ています。つまり、指導者の「常識」と選手の「常識」は、そもそも異なるものである可能性が高いのです。

届かない、という現象は、この二つの「常識」のズレが生んでいることが多い。同じ言葉を使っていても、指導者が指し示している感覚と、選手が受け取っている感覚は、別のものかもしれません。そのズレを確認しないまま「伝えた」と言うことは、地図の違う二人が同じ言葉で方角を話し合っているようなものです。

つまり、選手の「常識」と、届けようとしているアドバイスの「常識」の世界線が交わらない限り、いくらアドバイスを届けようとしても、それは選手の中のこれまでの「当たり前」の中で処理されてしまうということです。

そのように考えると、指導者においては、届けようとしているアドバイスの前提と、選手における常識の前提において、問い直すべきもの—その根拠・背景・どこへ向かうのか——を、指導者自身が問い直すことが求められているのではないでしょうか。


3.指導者の「常識」を問い直す

指導者と選手の「常識」のズレを埋めるには、まず指導者自身が自分のアドバイスを問い直すことを提案します。

試しに、次の3つの問いを自分に向けてみてください。

「なぜ自分はこれを正しいと思っているのか」

そのアドバイスを正しいと思う根拠は何でしょうか。自分の体験・経験は、本当にそのアドバイスやコツが原因だったのでしょうか。それは目の前の選手にも同じように当てはまるものなのでしょうか。過去に同じアドバイスをしたけれども、思ったような変化に結びつかなかったことはないでしょうか。その選手にとって正しいものになるようにさらに工夫すべきことはないでしょうか。

「問題意識は選手と同じ深さ、焦点が共有されているか」

アドバイスの前提になっている問題意識は、選手と同じ深さ・焦点でされているものでしょうか。もし問題意識にズレがあるとしたら、どうしたらその溝を埋められるでしょうか。

「そのアドバイスを実践した先にどんな未来があるか」

アドバイスを選手が採用した先に、どんな未来が待っているでしょうか。その変化を選手と共有するための言語化ができているでしょうか。

この3つに答えられないまま「こうすべきだ」と伝えることは、地図を使わずに道を教えるようなものです。届かないのは選手の問題ではなく、自分の「常識」と相手の「常識」のズレをまだ見えていないことが原因かもしれません。


4.選手の主体性と、指導者の責任について考える

コーチングや教育の世界では、「学習者の主体性を尊重する」という考え方が広く共有されています。選手自身が考え、選び、動くことを支援する——その理念は正しいと思います。選手が主体性を持って決断し、積み重ねてこそ、自信を持って試合に臨むことができます。

ただ、ここまで考えてきたように、選手は自分の「常識」を使ってアドバイスを解釈します。その「常識」に働きかけ、変化が生まれなければ、動きも考え方もこれまでと同じになり、結果も同じようなものになります。もしも、指導者から見た時に、選手の「常識」の延長線上にある未来が見え、それを指導者の「常識」によって変えられることが見えているとしたら、「最終的には選手が決めること」「相性があるから仕方ない」という言葉で関与を止めることは、果たしてあるべき姿なのでしょうか。

「常識」とは、その人の信念であるとも考えられます。「こうであるべき」「こうすべき」という、ものであり、常識に働きかけることは自分がこれまで信じてきたものが揺らぐことを意味します。それは簡単なことではありません。特に運動におけるそうした常識・信念は、論理で組み立てられている、というよりかは、自分の経験と反復、そして自分自身の中での感覚として身体に刻まれてきたものだからです。

5. 「常識」が動くのは、関係性の中から

では、そうした信念にまで届く言葉とはどのようなものでしょうか。

人はだれもが、自分がこれまでしてきたことは正しかった、間違っていなかったと信じたいものです。だからこそ、信念が揺らぐ事態は、単に考え方を訂正されることではなく、自分という人間が否定されたように感じることもあります。(関連記事:「もっとできたはず」が成長を止める——結果への執着を手放す技術

そうであるならば、信念に働きかけるために必要なのは、「自分自身は否定されない」という安心感です。自分のそのままを認めてもらえる、この人は自分を批判しようとしているわけではない、と感じられる関係性があって、初めて人は自分の信念を外から眺めることができます。信念の扉は、安全な場でしか開かれません。逆に言えば、情報がどれだけ正しくても、その関係性がなければ、扉は開かれないのです。

安全な場、関係性とは、選手が弱音や本音を言葉にしても否定されないと感じることができる場とも言い表すことができます。どのような答えを求められているか考えたり、お仕着せの答えではなく、「うまくいっていない」「怖い」「自分でも理由がわからない」——そうした正直な感情をそのまま口にできて、それが否定されずに受け止められる、そうしたやり取りができたとき、関係性が構築できているということができます。

指導者としては、選手には強くあってほしい、前向きであってほしいと思うのは自然なことです。しかし、選手が本音や弱みを吐露しようとしたとき、それを「そんなことを言っている場合じゃない」「そんな弱気じゃだめだ」と受け流してしまえば、扉は閉じてしまいます。選手の弱さやそのままの状態をそのまま受け止める姿勢が安全な場をつくり、信念に届く関係性の土台になります。


6.信念と姿勢を交わすとき、変容が始まる

指導者と選手が単に技術の情報をやり取りするのではなく、そうした土台の上で、互いのビジョン、信じていること、考えていることの背景を率直に共有する対話の中で、選手は初めて「自分が信じてきたものを疑う」ことができます。

指導者が「なぜ自分はこれを正しいと思っているのか」と話すとき、選手は初めて「じゃあ自分はなぜこの動きを変えたくないのか」を自分の言葉で考え始めます。そうした時に「情報の受け渡し」ではなく「問いの共有」が生まれ、変容の扉が開くのです。(関連記事:選手が自分で考え始める瞬間——「問い」で変わる指導の現場

それはある意味で、指導者が「答えを持っている」という前提を崩すことでもあります。指導者という立場である以上、答えを知っているべきだ、という感覚は当然なものです。しかしそれと同時に、「自分がまだ知らない何かが、この選手の中にある」という姿勢を持ち続けることこそが、本当の関係性と二人の間での本当の答えを育む出発点になるのではないでしょうか。

このように考えていくと、「主体性」とは学習者だけに求められるものではなく、お互いが主体的な姿勢で関わり合うべきものであり、選手に判断を「丸投げ」することでも、指導者が「正解を押しつける」ことでもないものと考えられます。

指導者も選手も、自分の考えに対して、その根拠を問い直し、対話する姿勢を持って関わり、考えが違うときには、どちらかが折れるのではなく、お互いが腑に落ちるまで話し合うこと。そうした営みの中でこそ、互いの思考が深まり、互いの「常識」を外から見る視点が生まれていきます。

このような対話は手間がかかるものです。自分の考えを伝える、あるいは選手に判断を委ねるとしたほうが、はるかに楽です。時には、なぜそこまでしなければならないのか、と感じることもあるかもしれません。

しかしその手間は、かけるだけの価値があるものだと、私は考えています。技術の情報をただ積み重ねても、信念の層には届かず、その扉を開くのは、時間と関わりの積み重ねの中を通した対話の中でこそ、届くものだからです。

7. まとめ

「相性がある」「選手が判断するもの」という言葉を使いたくなる場面は、これからもあるでしょう。そのとき一度、こう問うてみてください。「自分のアドバイスはどこから来てどこへ向かうものなのか。そして自分の『常識』と選手の『常識』の間に、まだ見えていないズレがあるのではないか」と。

動きを変えるとは、常識を変えることです。常識を変えるとは、相手の信念に踏み込むことであり、そのためには安全な関係性の中から生まれる対話の積み重ねが必要不可欠です。

指導とは、正しい情報を届けることではなく、お互いの信念と姿勢を交わし合う、その営みの中でこそ、二人の「常識」のズレを正しく捉え、課題ややるべきことがクリアになっていきます。その結果、選手の動きは変わり始め、指導者自身もまた変わっていくのです。


「じょうたつの学校」では、こうした指導と変容の構造について、対話を通じて一緒に考えていきたいと思っています。興味があれば、まずお話を聞かせてください。

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投稿者プロフィール

幹玄
幹玄探究実践者・スポーツ指導者
幹玄(Kangen)
探究実践者・スポーツ指導者。合同会社wakka代表。
「なぜ努力しても変わらないのか」——この問いを出発点に、20年以上にわたりスポーツ現場・教育現場で「変化の構造」と向き合ってきた。バイオメカニクス・脳神経科学・仏教哲学を統合した独自の指導論をもとに、AI・対話・構造化された問いを組み合わせた成長支援を実践している。

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「なぜ努力しても変わらないのか」を問いに、20年以上スポーツ現場と教育現場で「変化の構造」と向き合ってきた幹玄が、一緒に整理します。競技者の方も、指導に悩む方も、まず話を聞かせてください。
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【幹玄(かんげん)】
探究実践者・スポーツ指導者 「なぜ努力しても変わらないのか」を問い続けて20年以上。バイオメカニクス・脳神経科学・仏教哲学を統合した指導論で、スポーツ現場と教育現場の両方に関わっている。