
1章 選ぶことが、当たり前になった
当然のことですが、私たちは何かを学んだり、誰かから教わったりするとき、「それが自分にとってふさわしいアドバイスかどうか」を問うと思います。
選手はコーチのアドバイスを聞きながら、心の中でそれが自分に合うかどうかを見極めている。保護者は子どもの習いごとや指導者を選ぶとき、わが子に合うかどうかを判断していると思いますし、場合によっては子供の判断に委ねることもあるでしょう。与えられたものをそのまま受け取るのではなく、それが自分にとって良いものかを判断し、選び、ときには静かに距離を置く。こうしたことは、教育やスポーツ指導の場で、今や当然のことと受け取られています。
しかし、かつては、先生や指導者・コーチの指導を、疑問を挟まずにそのまま受け取ることが多かったのではないでしょうか。入った部活で出会ったコーチの指導をそのまま受け、それが自分に合うかどうかを問うことさえ、それほど一般的ではありませんでした。
そのように考えると、「選ぶ」という行為は、比較的最近のものであるということに気付かされます。今、様々な情報を簡単に手に入れることができ、選択肢も多く存在し、そのような中で自分や子どもに合うものを探すことが推奨されています。自分で考え、自分で選び、自分の判断を信じる。それは現代の教育や生き方の前提として、深く根づいています。
自分の頭で考え、自分の人生を自分で選ぶことは、とても大切な姿勢です。与えられたものを鵜呑みにせず吟味すること、自分の感覚を信じること──こうした態度は、それまでの教育のあり方が見直されてきたからこそ、大事にされていることでもあります。
ただ、そのうえで、ひとつ立ち止まって考えてみたいことがあります。
学ぶ側が「合う/合わない」を判断するとき、その判断は何を基準にしているのか。自分が「合わない」「違う」と感じるものは、本当に自分にとって必要ではないものなのでしょうか。
「教えること」において、主体的であることや、学習者が判断や取捨選択をすることが重視されていますが、「成長」や「変化」という視点で改めて見直した時に、「教えること」「教わること」がどうあるべきか、「教える」とはそもそもどういう営みだったのかを考えてみたいと思います。
2章 知識を伝えるという、近代の教育
これまで「教育」とは、「教える側」と「教えられる側」に分けられ、教える側が知識を教えられる側に伝え、多くの生徒に対して、限られた時間の中で、いかに効率的に知識を行き渡らせるかといった、「知識の伝達」という考えのもとで、学校という場が設計されてきた側面があります。
この構造の中では、学ぶ側に求められるのは、まず先生や指導者の指示をそのまま受け取り、実行することでした。教科書に書かれていることを覚え、教師の説明を理解し、求められた通りに答える。スポーツの場でも同じです。コーチが示すフォームを真似て、繰り返し練習し、言われた通りに動く。それが「ちゃんと学んでいる」「ちゃんと取り組んでいる」姿として、長らく評価されてきました。
この仕組みは、多くの人に体系的な知識を効率よく届ける、という目的においては、効率的で機能的な方法であり、社会が必要としていた人材を育てるうえで、こうした教育が育まれてきたのだと思います。
「指示をそのまま受け入れる」「先生の言う事を聞く」ということが当たり前とされ、疑問を持つことよりもまず受け取ること、判断することよりもまず実行すること、そうしたことが、教育や指導の場における、暗黙の前提として根づいてきたと考えられます。
3章 主体性を尊重するという、正当な流れ
しかし、こうした構造には、いくつかの問題が見えてくるようになりました。
ひとつは、一方向の伝達だけでは、本当の成長には十分に届かないということです。教える側がどれだけ整理された知識を持っていても、一方的に伝えるだけでは、受け手の側が十分に受け取れなかったり、理解が深まらないことが生じます。効率的に多くの人へ届けられる仕組みではあっても、一人ひとりの中に本当に根づくとは限りません。そして、たとえ受け取れたとしても、覚えた知識を自分で考えて使うことができない、状況に応じて応用することができない、指示を待つだけで自分からは動き出せない、こうした問題が生じ、教育や指導の目的が「知識の伝達」だけでは足りない、という気づきが、教育の現場から少しずつ広がっていきました。
もうひとつは、ハラスメントの問題です。教える側が一方的に指示を出し、学ぶ側がそれに従う関係は、その力の不均衡を悪用する余地を、構造的に抱えていました。スポーツの世界では特に、その弊害が表れ、現在もまだ根深い問題として存在しています。
これらの問題が重なり合いながら、教育やスポーツ指導の世界には、大きな揺り戻しが生まれており、「学ぶ側の主体性」「一人ひとりの感覚や考えを大切にする」「教える側は答えを押しつけるのではなく、学ぶ側が自分で気づき、自分で選ぶことを支える」「ティーチングからコーチング」といった流れが生まれてきました。
こうした流れは、内発的動機づけの尊重、自分で考え判断する力の育み、対話を通じて気づきを促す、といった形で、教育の質を高めてきました。
こうした姿勢が、たしかに主体性や考える力が育まれ、選手の成長を支える土台になってきていることは確かな事実だと思います。ですから、この流れそのものを疑うわけではありませんし、正しい方向への変化だったと考えています。
しかし、ここからさらに、そのさらに先へと考えを深め、「教え」がどうあるべきか、「成長」がどうしたら育めるのかを考えてみたいと思います。
4章 消費という、もうひとつの流れ
教育の世界で主体性尊重の流れが育っていったことは、消費や民主主義という流れと無関係ではないでしょう。
私たちの日常には、注文すれば翌日には届く通販、観たいときに観られる動画配信、聴きたい音楽が瞬時に再生されるストリーミング、質問を投げれば即座に答えを返してくれるAI。
私たちの生活を取り巻くサービスのほとんどが、求めるものが、すぐに、満たすように提供されています。
欲しいものはすぐ手に入る。満足できなければ別のものを選ぶ。合わないと感じたらやめる。サービスを提供する側もまた、求めるものを的確にすぐに提供することを競ってきました。もちろんこうしたことで、便利さも、選択の自由も享受し、私たちの生活を豊かにしてきました。
そして教育の場、指導の場でも同じように捉えられ、自分の判断で選んでいくということが大切にされていくことが「主体性」「自分で考える」といった考え方に表れていると考えられます。
このように、「教え」や「学び」が、消費と同じような枠組みで捉えられることによってどのようなことが起きてくるのでしょうか。
5章 教えと消費
「教え」や「学び」は「消費」と同じように考えることができるのか、2つの視点で考えてみたいと思います。
ひとつめは、時間の観点から考えてみたいと思います。
消費の関係では、何かが「すぐに」成立することが前提になっています。商品やサービスが提供され、その対価として貨幣が支払われる。その瞬間に、取引は成立し、完結する。求めるものと、それが満たされることのあいだに、ほとんど時間の隔たりがありません。
しかし、教育や教えは、そのようなものなのでしょうか。
たしかに、知識を「受け取る」というだけなら、消費に近い形で成り立つかもしれません。本を買えば情報はすぐ手に入りますし、説明を聞けば、その場で「わかった」と感じることもできます。
けれども、「わかった」と感じることと、それが本当に自分のものになることのあいだには、大きな隔たりがあります。
たとえば、自転車の乗り方を考えてみてください。「ペダルをこいで、バランスを取りながら、ハンドルで方向を調整する」。言葉で説明すれば、誰でもすぐに理解できます。でも、その説明を聞いた瞬間に乗れるようになる人は、一人もいません。何度も乗っては転び、ふらつきを繰り返し、ある日ふいに、体がバランスを覚える。「わかる」ことと「できる」ことのあいだには、言葉では飛び越えられない時間が横たわっているのです。
さらに言えば、その「わかった」という感覚そのものも、どこまで確かなものなのでしょうか。
たとえば、コーチが選手に「力を抜いて」と伝えるとします。選手は「わかりました」とうなずく。たしかに、言葉は伝わっていますが、コーチが思い描いている「力を抜く」と、選手が思い描いている「力を抜く」は、本当に同じものでしょうか。同じ言葉を使っていても、その中身は人によってまるで違うことがあります。言葉が伝わっていても、実は何もわかっていなかった、ということが、教えの場では起こりうるのです。本当の意味でその言葉が腑に落ちるのは、何度も試し、ときに失敗を重ねた、ずっと先のことかもしれません。
教えるという営みは、ただ単に言葉や知識の伝達ではなく、その事柄が本当に受け取る側のものになってこそ、本当の意味での教えが伝わったことになります。それは、すぐに起こるかもしれないですし、何ヶ月もかかることがあれば、年単位の時間が必要なこともあります。そのような点では、変化するという営みは偶発的なものでもあり、また教える側と教わる側の関わり方によって、その変化がどう起こるかが変わってくるものでもあります。
しかし、「消費」という枠組みの延長線上で捉えてしまうと、教わる側がすぐに変化が見えなければ、合っていないのではないかと感じたり、すぐに成果結果が出るようなものを求める感覚で考えてしまうと、決してこのような変化や成長は起こり得ないでしょう。
そのような点で、「教え」という営みには、待つ時間、熟す時間、揺らぐ時間といったものがあってこそ成長や変化へとつながるものであるのではないでしょうか。それが「消費」という枠組みにおいては「無駄」や「停滞」として処理されてしまい、結果として本質的な変化や成長ができなくなっているのではないでしょうか。
ふたつめは、求めるものと必要なものとのズレ、という観点から考えてみたいと思います。
消費の関係では、求める側が「何が欲しいか」を知っている、ということが前提になっています。だからこそ、その求めに合わせて提供がなされます。
しかし教育の場においても同じ事が言えるのでしょうか。
たとえば、「これをうまくなりたい」「これを強くできるようになりたい」という願望に対して本人は、「腕力が大事だ」「力を強くしなければならない」と考えているとしましょう。しかし、実は力を抜くことが大切であったり、コーチや外から見ると違うことが必要なポイントであるかもしれません。そのような状況においてコーチがアドバイスした時に、本人が「それは自分には合わないと思う」「違うと思う」と判断したとしたら、その選択を尊重することは本当にその生徒にとって良いことなのでしょうか。
自分にとって本当に必要なことが自分で理解できている、という前提が成り立てば、たしかに求める側・学ぶ側が何を学ぶかを選ぶことができますが、もしも自分にとって必要なことが理解できていない、としたら、正しい選択をすることは難しくなることがわかります。
本当の意味での学びとは、「自分には分かっていないことがある」という前提の上に成り立つものであり、相手が求めていなくても、相手にとって本当に必要なことを提示する、ということが、教えという行為の本質的な一面なのではないでしょうか。
しかし、「消費」や「取引」という枠組みで捉えてしまうと、「自分が求めているのと違う」「これは自分には合わない」と感じた瞬間に、学びへの扉が閉まってしまうことになります。
(関連記事:教えが届くには何が必要かを考える)
かつての師弟関係に、含まれていたもの
近代の学校教育よりもはるか以前において、職人の弟子入り、武道や芸事において師につくといったことが行われ、徒弟制度や師弟関係が成り立ってきました。こうした関係の中に、体罰やハラスメントなど、否定されるべき側面が存在していたことは、はっきりと確認しておかなければなりませんし、現代に持ち越されてよいものではありません。
しかしその一方で、その関係においては、弟子が師の示すものを「正しいかどうか」「自分に合うかどうか」を判断する前に、まずそのまま受け入れて実践していく、といった営みが行われてきました。この姿勢は、いまの感覚からすれば、主体性を欠いた服従に見える部分もあると思います。
しかし、そうした関係性において学びが行われてきた背景には、自分には見えていないことを伝えるために、そのような関係性である必然性があったのではないか、とも考えられます。自分がいま判断できる範囲の中で「合う/合わない」を選んでいる限り、自分の枠を超えるものを会得することはできないので、まずは自分の判断を保留して、師の差し出すものに身を置くことで、学びや成長が行われるような営みが、かつての師弟関係には組み込まれていたように思うのです。
6章 二つの枠組みが、取りこぼすもの
ここまで、教えという営みについて、ひとつは「それがすぐに得られるものではないということ」もうひとつは「自分にとって必要なものは、自分には見えていない」ということを見てきました。
ただ、このように考えてしまうと、「変化が見えなくても時間がかかるもの」と捉えてしまったり、また「言われたとおりにするべきだ」「言われたことをやっていればいい」という見方もできてしまうので、もう少していねいに考えてみたいと思います。
たしかに変化には時間がかかることがありますが、しかし「ただ時間をかけさえすればよい」「時間がかかるものだから仕方がない」と片付けるべきでもありません。
動きや考え方を、ひとつのプログラムのようなものだと捉えると、もしも時間が経過する中で、これまでと同じ動き同じ考え方が繰り返されると、そのプログラムはむしろ強化されていくだけであり、変化が生まれないことになります。「変化」や「成長」という視点で捉えた時に必要なのは、ただ時間をかけるのではなく、どうにかして、どんなに小さい変化であっても、これまでとは違う新しい変化を起こしにいくことです。その小さい変化は、関わり方によって、0.5歩ずつ進むときもあれば、3歩ずつ進むときもあるかもしれないので、どうしても時間がかかるときや成熟が必要とされるかもしれません。ですが、たとえ0.1歩ずつであっても、変化を生みだす取り組みこそが、成長へとつながる時間のかけ方だということがわかります。
また、ただ受け身で言われたことに取り組めばよい、と捉えて、コーチの教えが自分にはよく分からないまま、ただ形だけなぞって取り組んでも、「分からないこと」は「分からない」まま繰り返されるだけです。「分からないこと」をわかるようになるとは、今までの自分では理解できなかったことが理解できるようになることであり、それは自分の常識を変えていくような試行錯誤の中で自分の枠を少しずつ変化させていくことで、「分からない」ことが、「分かる」ようになっていくものです。それは到底受け身でただ取り組むだけで実現できるものではなく、前向きに主体的に取り組んでこそ、「分かる」ようになっていくものです。
(関連記事:動きは思考のプログラムである——形の背後にある意図の構造)
このように見てくると、教えという営みは、すぐにできるようになるものでもなければ、時間をかければよいものでもなく、ただ教わる側が全てを判断できるものでもなければ、受け身で取り組めばよいものでもなく、学ぶ側にも、教える側にも、それぞれに積極的に関わる姿勢が求められてくるものだとわかります。
たとえば、学ぶ側であれば、教えられたことが分からなかったとき、納得できなかったときに、分かるまで、納得できるまで問いを重ねたり、「合わない」と感じたものを、その場で退けてしまうのではなく、なぜそれが自分に必要なのかを自ら確かめたり、考える。
教える側であれば、学ぶ側が自分の考えとは違う選択をしているとき、「それは本人が決めたことだから」と手を引いてしまうのではなく、共通の認識が取れるまで、なぜそれが必要なのか、それがどこへ向かうのかといった対話をもって取り組む。
相手に委ねきってしまうのでも、相手を一方的に動かそうとするのでもなく、お互いが積極的に関わっていく、こうした双方の主体的な姿勢が変化や成長のために求められているのではないでしょうか。
私たちはこれまで、教えるという営みを、どこかで「する」か「される」かで捉えているように思います。教える側が知識を授け、学ぶ側がそれを受け取る——そう見るとき、教える側は「する」側であり、学ぶ側は「される」側です。あるいは反対に、学ぶ側が求め、教える側がそれに応える——そう見るときには、学ぶ側が「求める」側で、教える側が「応える」側になります。
向きは違っても、どちらも、誰かが誰かに何かを「する」という枠組みの中で、教えを捉えていることに変わりはありません。
しかし、変化や成長というものは、本当に、誰かが誰かに「する」ことで生み出せるものなのでしょうか。 むしろそれは、自分だけの力で生み出せるものでも、相手だけが起こせるものでもなく、自分と相手との関わり合いの中で起こってくるもの——そう捉えるべきものではないでしょうか。
教える側は、自分の関わりによって、たしかに学ぶ側の変化や成長を生み出していくことができます。しかし同時に、それは自分の関わりだけで思いどおりに生み出せるものではありません。学ぶ側もまた、自分の取り組みによって自らを変えていくことができますが、それも自分ひとりの力だけで成し遂げられるものではない。
変化や成長は、どちらか一方が「起こす」ものではなく、二人の関わりの中から、ある時ふいに「起こってくる」もの——そう捉えると、私たちは、自分の関わりに力を尽くしながらも、それだけですべてをなしうるとは思わない、という謙虚さを持つことができます。そうした謙虚さこそが、相手に委ねきってしまうのでも、相手を思いどおりに動かそうとするのでもない、双方の主体的な姿勢を、内側から支えているのではないでしょうか。
7章 教えは、出来事である
能動でも受動でもなく、第三のあり方がある──そう指摘した哲学者がいます。
國分功一郎は『中動態の世界』で、「考える」「感じる」「学ぶ」といった営みは本来、誰かが何かをする(能動)のでも、誰かに何かをされる(受動)のでもなく、自分という場でその出来事が起こるものだと論じました。古い言語にはこうしたあり方を表す「中動態」と呼ばれる文法形式があり、近代になって私たちは、それを「する/される」の枠組みに置き換えられてきました。
※※
教えを「する」か「される」か、「能動」「受動」という枠組みで捉えると、教える側が言って聞かせ、教わる側がそれをやらされる、という捉え方や、あるいは教わる側が「主体」として、言われたことをやるかやらないか、わからないことをそのままにするか、といった捉え方になります。
どちらのとらえ方も、変化を、誰か一方が起こす・起こさないものとして見ている点では同じです。教える側が起こすか、学ぶ側が起こすか。主語は違っても、変化は誰かの側に属するもの、として捉えられています。
けれど、変化や成長を、教える側のものでも、教わる側のものでもなく、二人のあいだに立ち現れ、互いの存在が影響を与えあうなかで生まれてくるものであると捉えたら、学ぶ側も教わる側も、「やるか、やらないか」を自分の物差しで決めるのではなく、そのあいだに生まれようとしている変化へと、自分から関わっていくことに向けられます。
どちらかが動かし、他方が動かされるのではなく、二人がともに、その出来事へと能動的に関わっていくという営みへと変わり、問いと応えが往復し、互いの積極的な関わり合いのなかで、気づきが立ち上がっていく——教えるとは、本来そういう営みだったのではないでしょうか。
8章 わからない、できないがあるから
私たちには、「できない」や「わからない」を、否定的なものとして捉える心があるように思います。すぐに満たされたい、合わないものは遠ざけたい、変化が見えないと不安になる——その奥には、できないことは早く解消すべきもの、わからないことはできるだけ早く埋めてしまいたいもの、という感覚が働いています。だからこそ、私たちはすぐに手に入るものを求め、回り道を嫌い、時間のかかるものから離れたくなります。
けれども、考えてみれば、できないことがあるからこそ、できるようになる喜びがあります。わからないことがあるからこそ、わかるという喜びがあります。最初からできていること、わかっていることに、心が動くことはありません。何度も試し、つまずき、ある日ふいに、できるようになる。ずっと腑に落ちなかったことが、あるとき、すっと自分のものになる——そうした瞬間にこそ、学ぶことの喜びが宿っています。
そう捉えると、「できない」も「わからない」も、早く解消すべき欠けたものではなく、これから変化や喜びが生まれてくる、ゆたかな入り口だという側面が見えてきます。
教えるという営みをそう捉え直してみると、知っている者が知らない者を満たすことでも、できる者ができない者を直すことでもなく、わからないことを前向きに捉え、変化が起こってくるのをともに楽しみながら工夫していくこと、その関わりの中で、お互いの中に新たな気づきや変化が生まれる豊かな時間に変わるのではないでしょうか。
すぐに満たされることに慣れた私たちにとって、一見遠回りな営みに見えるかもしれませんが、実はそれこそが一番の近道であり、同時にその時間の中にこそ、教えと学びの、いちばんの豊かさがあるのではないでしょうか。
(関連記事:教えが届くには何が必要かを考える)