指導の本質は、どこにあるのか

運動やスポーツの指導は、指導者によってそのやり方や取り組み方が大きく異なります。では、どのやり方が正しいのでしょうか。選手が勝てば、その指導は正しかったのでしょうか。勝てなければ、間違っていたのでしょうか。

そのような見方はたしかにわかりやすいものですが、結果には、指導だけでなく、選手がもともと持っていた力や、練習した時間や、置かれた環境といった要素が混ざり合っているものです。結果だけを見ても、指導の何が良くて、何を直すべきだったのかがそのまま表れているとは言えないでしょう。何が正しいのかが分からないままでは、指導の改善というのはどのようにしていけばよいのでしょうか。さらに言うならば指導の本質というのは、どこにあるのでしょうか。

指導の方法は、どうやって良くなっていくのか

選手の技術を良くする方法は、たくさん語られています。では、指導する側の方法は、どのようにして良くなっていくのでしょうか。

資格の講習はあります。指導者の役割、安全、トレーニングの理論、コミュニケーション。けれど、指導者に「いちばん影響を受けたものは何か」と聞くと、多くは講習ではなく、自分が選手だったときの経験や、他の指導者の姿を挙げるそうです。指導者は、指導者になる前に何年も指導を受けています。自分が受けてきた指導や、自分が上手くなったやり方が、そのまま自分の指導の土台になるのは、自然なことだと思います。

しかし、そうした経験のどの部分が自分の上達や成績につながったのかは、実はよく分かっていないことが多いのではないでしょうか。もしそうだとしたら、自分の指導方法についても何がよい影響へとつながり、何が改善すべきことだったのか、という視点も必要なのではないでしょうか。

もちろん、受けてきた指導を踏まえて、改善している指導者もたくさんいると思います。言われたとおりに動くだけの指導だったから、自分で考える選手を育てたい。怪我が多かったから、選手が自分の体の状態をきちんと話せるようにしたい。そうした思いは、指導の大切な出発点だと思います。

ただ、それが「自分は嫌だった」「自分には良かった」という一人の経験にとどまっている限り、その思いが目の前の選手にも当てはまるのかは分かりません。自分には合わなかった指導が、別の選手には合っているかもしれない。自分を救ってくれた関わりが、別の選手には届かないかもしれない。

大切なのは、一人の経験から生まれた思いを、選手が違っても、競技が違っても成り立つものへと磨いていくことです。何がうまくいき、何がうまくいかなかったのかを、その人の個人の経験から切り離して、再現できる形にしていく。そこまで行かないと、経験は経験のまま、その人の中にとどまってしまうのではないでしょうか。

教育の世界では、教員の力を測るときに、生徒がもともと持っていた学力を差し引いてから、担当した期間の伸びを見る、という研究が行われています。そうしないと、もともと成績の良い生徒を受け持った教員が「良い教員」に見えてしまうからです。スポーツでも、プロバスケットボールの監督を調べた研究では、選手の成績にはっきりした影響を示した監督は一部にとどまり、評判の高い監督の中には、良い選手に恵まれていただけの人もいたといいます。

部活動やスポーツ指導の現場でも、こうした検証が必要なのではないでしょうか。けれどいまは、指導の成果から、選手がもともと持っていた力や練習の量を差し引いて見られているケースはなかなか目にしません。何が良くて、何が良くなかったのか、が確かめられないままだと、上手くいった指導も、なぜ上手くいったのかが分からないので、別の選手で同じように再現することができません。上手くいかなかった指導も、何を直せばいいのかが分からないので、それ以上良くしていくことができません。また、それは他の指導者が再現できないことも意味し、指導が、その人の、その選手との経験にとどまることになります。

他の分野を見ると、少し事情が違います。医療では、診察を「本人の訴え」「見えた所見」「見立て」「方針」という決まった形で記録します。治療の腕には個人差があっても、見立てに至るまでの手順と記録の形が共通しています。そのため、同じ患者を見た他の医師と突き合わせて、どこで見方が分かれたのか、どの段階で見誤ったのかを特定することができるので、行為の途中で起きていたことを見て、検証できるようになっています。スポーツの指導には、まだこうした取り組みはほとんどないように思います。

しかし、こうした取り組みは、スポーツ指導において本当にできるのでしょうか。私自身が考えるようになったきっかけから書いてみたいと思います。

きっかけは、教えても変わらなかったこと

指導を始めたころの私は、自分のやり方、自分が上手くなった方法で、選手に接していました。

自分が上手くなったのだから、同じようにやればできるはずだ。そう思い、自分が自分で気づき自分で努力した場面は、選手にも自分で気づき自分で努力することを求め、自分が課題だと感じて取り組んだことをそのまま取り組ませていました。逆に言うと自分がうまくなれなかった部分については、後回しにしていた部分があったと思います。

そのように接していて、確かに「教えて」はいましたが、変化が見られない時に、どこかで相手の責任にしていた部分があったと思います。相手がきちんと取り組んでいない、それだけの本気度がない、考えていない、そのようにして、片付けていた部分があったと思います。

しかし、振り返ると、その頃の指導に、今ほどの喜びがあるかというと、そうではありませんでした。

今だからわかりますが、その時に私が見ていたのは、自分のやり方が通用するかどうかでした。しかし、自分が上手くなった方法は、自分の体と自分の条件で上手くなった方法です。目の前の選手にその条件が当てはまらなかったときに、本当に何がそこで起きているかは、見れていませんでしたし、見ようともできていなかったのだと思います。

観察するために、記録をつけた

もともと私は、力を抜くということが、なかなかできませんでした。競技生活の中でも、それが大切だということは理解できていても、どういう状態が力を抜けた状態で、どうやったら力が抜けるのかがわかりませんでした。自分なりのやり方をいくら試しても、「力をもっと抜いたら」と言われている状態でした。

ですので、指導をしながらも、自分の中で「どうしたら力が抜けるのか」「どうしたら上手な選手のような身のこなしができるのか」といった問いを持ち続けていました。

それがある時、大きく変わった体験があります。なんとなしにラケットを振っていて、ふと「ボールを打つのはラケットなのだから、自分が頑張ることではなく、ラケットが働くこと、活躍することが大事なのだ」という気づきを得ました。

それまでの私は、いつも自分が主語で、自分がラケットの動きを支配しよう、コントロールしよう、と捉えていました。しかし、そうではなく、自分はあくまでもサポート役であり、ラケットが主体であり、ラケットの力を活かすために自分がどれだけ邪魔をしないか、サポートができるか、と捉えたときに、ラケットの重さや遠心力が手に伝わってくるようになり、気づけば、抜こうとしなくても力が抜けていました。

その体験は、道具を観察し、道具を理解するというところにとどまらず、自分と、自分の周りにあるものとの関係を、どう作っていくか、というところにまで広がったものでした。つまり、自分がどれだけ周囲に対して「こうしたい」と思ったとしてもそれはコントロールできるものではなく、自分以外の存在がどういう存在で、どうしたいのか、を踏まえないと、ただ形だけを整えたものになるだけで、結局は変化はもちろんのこと、成果結果にはつながらないのだ、という気づきでした。

そうした体験から、自分のやり方や自分の意図は一旦脇に置いて、まずは相手を感じ、相手がどうしたいのか、相手の意図は何か、を見るように心がけるようになり、指導の場においても当てはめて考えた時に始めたことが、記録をつけることでした。

その日、選手はどういう状態で、何をどういう意図を持ってプレーをしていて、自分はどういう変化を期待して、どう働きかけたか、その結果として何が起きたか、どの条件ならできて、どの条件だとできなかったか、こうした記録をつけていくことで、それまで何となく行なっていた指導において、自分の思考が整理されていくことを実感しました。項目を整理することによって、その項目に自分の思考が向いていくからです。

こうした型に当てはめて振り返っていくと、どういう状態の選手に、どう働きかけると、どう変化するのかが、少しずつ見えてくるようになりました。同時に、変化に結びつかなかったときの原因も、整理されていきました。

  • 認識が、ずれている。本人は「今のは良かった」と言うのに、こちらから見ると狙った動きは出ていない。何が起きたのかを聞いても「分からない」と返ってくる。同じ一球を見ていても、本人が感じていることと、外から見えていることが異なっている、自分で自分がどうなっているのかわからない、といった状態です。自分の自分に対する認識、自分と周囲からの認識がずれたままでは、何を伝えても、選手には「もうやっている」か「何のことか分からない」としかなりません。
  • 意識しても、動きが変わらない。取り組むことは分かっているのに、体がそのとおりに動かない。「こう打ちたい」は言えても、その動きを体で出せない。練習ではできるのに、試合になると崩れる。球出しではできるのに、ラリーになると崩れる。どれも、取り組むこと自体は合っていて、それを体で実行できていない状態です
  • 動きは変わったのに、結果が変わらない。言われたとおりに動けているのに、ミスが減らない。強い動き、速い動きにならない。こうした場合、足りないのは選手の実行ではありません。取り組んでいることそのものが、課題の原因からずれています

そして気づいたのは、選手やレベルや競技が違っても、変化が現れない場面はこの三つのどれかに当てはまるということです。

とくに、二つ目と三つ目を分けて見られるようになったことは、大きな変化でした。それまでの私は、結果が変わらないときに、それが「やろうとしていない」のか、「やろうとしているのにうまくできないのか」あるいは「やろうとしていることの見立てが違う」のかを、区別できていませんでした。本人がやろうとしているのにできていないのなら、それは原因の見立てが異なるこちらの責任となります。これらを整理できていなかったので、選手のせいにするか、同じ言葉を繰り返すしかなかったのだと思います。

指導の本質は、どこにあるのか

一般には、指導者が解決策を示し、選手がそれを実践すれば、結果は変わると考えられています。けれど記録を見返すと、それだけでは変わらないことがたくさんありました。そこで、結果が変わっていないという事実から、順に確かめていくようにしました。まず、選手がそれをやろうとしているのか。やろうとしていなければ、何に、なぜ取り組むのかという認識が、二人のあいだで揃っていない。やろうとしているのに動きが変わらなければ、それを実行できる条件が整っていない。動きは変わったのに結果が変わらなければ、そもそも課題の特定がずれている。

言い換えると、変化は、次の三つがすべて揃ったときに生まれます。

  • 指導者と選手の共通認識:何に、なぜ取り組むのかが、二人のあいだで揃っているか。揃っていなければ、選手は取り組もうとしません(一つ目の場面)
  • 解決策の実践:取り組もうとしていることが、実際の動きとして実行できているか。できていなければ、実行できる条件や環境を工夫します(二つ目の場面)
  • 課題の特定:動きが変わったときに、結果も変わるか。変わらなければ、課題の特定がずれているので、特定し直します(三つ目の場面)

指導とは、この三つのうち、まだ揃っていないところを見つけ、そこに集中して働きかけることだと言えます。三つの場面が変化の止まる場所を示しているとすれば、三つの要素は、指導者が働きかける場所を示しています。そして、この要素は競技やレベルや指導者が違っても変わらない共通の枠組みだと考えられます。これらの要素を紐解きながら、この要素を通して指導を見ていくことによって指導において共通言語になるものがどのようなもので、一方で普遍化出来ない部分がどのようなものなのかを考えていきたいと思います。

共通言語にできる部分

課題の特定

運動とは、突き詰めれば、とてもシンプルなものです。自分の体を操作して、相手やボール、道具、あるいは地面や水といった環境とやり取りしながら、体や道具の重さを、限られた時間の中で、必要な場所へ、効率よく素早く移動させることであり、つまり「物体を移動させる」ということに尽きます。運動がそうした物理的な営みであるなら、そこにはより合理的な動き、効率的な動きというものは力学や運動の法則に則るはずです。

重さや速さの扱い方には、たとえば次のような原則があります。

  • 振り子:腕や道具は、力で振り回すより、付け根を支点にして重さで振れるようにしたほうが、速く、安定して動く
  • 重さの移動:体重を、地面からの反力を受けながら進む方向へ移していくと、小さな部分の力に頼らずに大きな力を出せる
  • 運動の連鎖:速さは、体の中心に近い大きな部分から末端へ、順に受け渡すことで生まれる
  • 支点と軸:回転の軸や支点が安定しているほど、末端の動きは正確になる
  • 予備の動き:止まった状態から動き出すより、わずかに動いている状態や反動を使ったほうが、速く反応できる

さらに、パフォーマンスは、こうした動きを相手や環境との関わりの中で、いつ、どこで、どのように発揮するかによっても変わります。力学の原則にかなった動きを、どの場面でどう使うか。それによって、自分の時間と場所を整え、同時に、相手や環境とのあいだの時間と場所をコントロールしていくことで、競技の結果につながってくる、と捉えることができます。

もちろん、具体的な動きの表れ方や、どの場面でどう発揮するかは、競技や、選手の体格・重さなどの特性によって異なります。けれど、力学的に合理的な体の使い方と、相手や環境とのあいだで時間と場所をつくり、使うということは、どの競技にも共通するはずです。体の使い方が原則から外れれば、力は逃げ、動きは不安定になり、ミスや怪我にもつながります。時間と場所のやり取りがかみ合わなければ、良い動きができていても、それが功を奏しません。思うようにいかない場面は、このどちらか、あるいは両方にずれがあるところで起きていると考えられます。そして、そのずれがどこにあるのかは、力学的な論理や、時間と場所の関係から読み解けるものなので、見る人によって大きく変わるものではないはずです。もちろん、そこにはさまざまな要素が相互に関連しています。たとえば心の状態は、動きに大きく影響します。また、動きは時間と場所に大きく影響します。けれど、実際に表に現れている、動きと、その動きが起きた時間と場所という事実を起点にして、同じ方向に課題を探していけるはずです。

もちろん、課題が複数あるときにどれを優先するか、あるいはその課題の原因がの深さに存在するのかについては、指導者によって見方が分かれたり、取り組む中で本当の原因が見つかることもあるでしょう。けれど、そこに課題があるという事実自体は、見る人によって変わるものではないので、少なくとも「いま、動きの何が課題なのか」「どこがボトルネックになっているのか」については、指導者のあいだで共通の認識を持てるのではないでしょうか。

共通認識のとり方

課題が特定できても、それだけで選手が変わるわけではありません。指導者に課題が見えていて、分かっていても、選手本人がそれを感じ取り、分かっていなければ、練習において変化を生み出すことは難しいでしょう。指導者と選手のあいだでも、共通の認識をとる必要があります。

共通認識がとれないとき、どこで認識のずれが生じているのかは、ある程度整理ができると考えています。

一つ目は、身体、つまり事実としての動きです。指導者は外から見ていて、選手は内側から感じています。けれど、どちらも、見ているつもりで実は見ていないことがよくあります。ここでの鍵は、「観察」です。

たとえば、選手は「しっかり振り切った」と言うのに、指導者は振り抜けていない場合、お互いの認識がずれているので、ここで指導者が「振り切ろう」とアドバイスしても、選手からすると「振り切っているのに」ということになります。自分がどう動いているのかを、自分で分かっているとは限らないのです。だから、人は見えているものが違う、相手には見えていないものがあるかもしれない、という前提で、同じ動きを一緒に観察して認識を合わせることがポイントになります。

二つ目は、認知です。認知には、自分の体の動きをどう感じ取っているかと、相手やボール、周りの状況をどう捉えているかの、二つがあります。

動きについては、どのような動きなのかがわかりやすいですが、そうした動きも、外から情報が入り、その状況を判断したうえで最適と考えられる動きを体に対して指示を出しています。

動きと同じように、たとえ同じ場面を同じように見ていたとしても、見ているつもりで見ていない、ということが起きています。たとえば、「ボールをよく見て」と言われた選手が、「見ています」と答える。たしかに目はボールを向いていても、その速さまでしっかり見抜けていたかを確認すると見えていなかったり、あるいは、ボールは見えていたのに、移動の準備が遅れて体が動き出したときには遅れてしまっている、ということが起きています。

三つ目は、意図、つまり捉え方・考え方です。観察して見えてきた、事実としての動きや認知の結果を捉え、それをそのまま課題として伝えてもなかなか伝わりません。人は、見たいように見たいものを見て、自分のしたいように動きをつくろうとしているので、本人が見ているものやその動きは、その本人の意図や考え方によるものです。それを無視して、表に出た動きやずれだけを直そうとしても、変わりません。

たとえば、「力を抜いたほうがいい」とアドバイスしたとします。けれど選手が「力を入れなければ、ボールに負ける」と捉えていたら、そのアドバイスは受け入れられません。選手にとっては、力を抜くことが失敗することを意味しているからです。ですので、何かを変えようとする前に、まずこの捉え方のずれを明らかにする必要があります。

共通言語の上に、人それぞれの指導がある

課題の特定や共通認識のずれが、すでに起きたことを確かめるものだとすれば、これからそれをどう改善するか、を選ぶ場面こそが、指導者個々の特性や選手個々に状況に合わせた指導が必要になってくるものではないでしょうか。

課題が特定されて明らかになったとしても、こうした課題が複数あるとき、どれを優先し、どこまで深く掘り下げるか。特定した課題に、どこからどう取り組み、解決策をどう示すか。共通認識をとるために、どんな言葉で、どんな順番で伝えるか。こうした場面において、それぞれの選手の状況と、指導者の特性に応じた対応が必要になってきます。選手の年代、性格やこれまでの取り組み、その日の状態、大会までの時間やチームの状況、そして、指導者自身の経験や、得意な伝え方。同じ課題に対しても、うまくいく道筋は一つではありません。

指導の本質は、共有した課題に対して選手と一緒に解決策を育んで、変化を生み出していくことであり、そのための人それぞれの工夫が活きるのは、共通言語の整理の上に立ってこそできるものではないでしょうか。

また、共通言語にできる部分が揃っていれば、指導者どうしの事例を共有しやすくなります。課題の捉え方が共通し、そこに対する取り組み方が違えば、そのやり方を比較し、取り入れ、実践することができます。どこまで同じで、どこから違うのか。違ったのは選手の状態なのか、条件なのか、関わり方なのか。前提が揃っているから、違いから学び合え、建設的なアイディアが生まれやすくなるのではないでしょうか。

では、共通言語にできる部分を、実際の指導の中でどう揃え、どう残していけばいいのか。ここから先は、私がいま使っている基本のフォーマットです。新しく考え出したものではなく、すでに現場でやっていたことを、他の指導者と出し合える形に書き直したものです。競技の専門家でなくても、同じ順番で確かめられるように整理しています。

六つの段取り:一緒に揃えるところと、指導者が判断するところ選手と一緒に(共通認識をとる)指導者が考え、判断する一緒に① 課題の共通認識をとる(何が起きているか)一緒に② 観察する(身体・認知・意図/巻き戻す)指導者③ 原因を見立てる(いつ・どこが・どのように)一緒に④ 取り組むことを決める(目指すものを揃える)指導者⑤ 意識したとおりに、動きは変わったか指導者⑥ 課題となっていた点は改善されたか原因が改善した難易度を上げ、別の場面でも課題の改善を確かめる実行の問題条件を下げる・感覚を探す → ④へ見立ての問題違う・あいまい・主因でない → ②へはいはいいいえいいえ観察に戻り、探し続ける
指導の基本フォーマット:六つの段取りと二つの確認

基本フォーマット:六つの段取り

フォーマットは、六つの段取りでできています。課題の共通認識をとる、観察する、原因を見立てる、取り組むことを決める、そして二つの確認です。このうち①②④は、選手と一緒に共通認識をとる段取りです。③⑤⑥は、指導者が考え、判断する段取りです。ここで出す原因は、いつでも「いまの見立て」です。正解を当てる手順ではなく、探し続けるための手順として使います。

① 課題の共通認識をとる

まず、結果として何が起きているのかを、二人で同じ言葉にします。「ネットにかかる」「振り抜けていない」。ここでは、まだ原因には触れません。そのとき、指導者の見立てを言う前に、まず選手に聞きます。「何が起きた?」「さっきと何が違った?」。指導者が先に答えを言うと、選手はそれに合わせてしまうからです。

選手の言葉と、自分に見えたことが一致していなければ、まだ次に進みません。ここが揃わないまま原因を探しても、二人は別のものを直そうとすることになります。

② 観察する

観察は、三つの視点で行います。

  • 身体:どこに、どう力が入っていたか。動きのどこで、何が起きたか
  • 認知:何が見えていたか。いつ、何を手がかりに決めたか
  • 意図:何をしようとしていたか。何をもって成功だと思っているか

観察の手がかりは、時間と場所です。

サービスで考えてみます。時間をコマに分けると、トスが上がる。ボールの位置が目に入る。どこで打つかを決める。体が動き出す。当たる。一つひとつのコマの中で、何が入ってきて、何を決めて、体がどう動いたか。その並びを追うと、どこで崩れているのかが見えてきます。

いつ、どのコマで、体のどこで、何が起きたのか。時間と場所を特定すれば、見え方が違っても、同じ出来事を指して話せます。

そのうえで、できれば、そのとき力がどう働いていたのかを出し合います。指導者は「このコマで、重さが前に移りきらず、腕だけで振っているように見える」と、外からの観察を伝える。選手は「そのとき、腕に力が入っていた」「足には体重が乗っていた気がする」と、内側で感じたことを返す。外からの観察と内からの感覚を並べることで、事実としての動きが、初めて二人のあいだで共有されます。

結果から時間を巻き戻すことも大切です。ミスが出たコマから一つずつ遡り、「その前に、何が起きていたか」を問います。「打点に入れていない」という結果を遡っていくと、足が動いていないのではなく、相手のボールの速さを見抜けていなかった、というところに行き着くこともあります。表に出た場面だけを見ていると、本当の出どころは見えません。

指導者に見えた事実だけで指導する人は多いと思います。私も長くそうでした。見えているものがあれば、処方は出せます。でも本人の言葉がないまま出した処方は、当たっても外れても、なぜそうなったかが分かりません。分からないものは、人と出し合うこともできません。

実際、ある選手の一つのテーマを10か月にわたって追った記録を見返すと、本人の言葉が記録されていた回はすべて、私が見るところを変えた回でした。言葉が残っていない回が続いた時期は、ほぼ同じところを見続けていました。本人の言葉を聞いたから見方が変わったのか、見方が変わった回だから聞いたのか、そこまでは分かりません。ただ、二つが一緒に動いていたことは確かです。

③ 原因を見立てる

観察から、課題の原因を見立てます。見立ては、「いつ」「どこが」「どのように」まで具体的にします。「足を動かす」ではなく、「相手が打った瞬間に、右足から一歩目を出す」。あいまいな見立てでは、取り組めたかどうかも、確かめようがありません。原則に照らして、どこがずれているのかを考えるのも、ここです。

候補が出ても、すぐに課題と決めずに、次のことを確かめます。

  • 候補を二つ以上立てる。一つしかないと、それが正しいのかを比べようがありません
  • その見立ての出どころを確かめる。この選手との観察から出たものか、自分の知識や経験から出たものか

見立てを疑うのは、自分の見方を否定するためではありません。知っている答えを当てはめるだけの指導にならないためです。かつての私は、そうして自分のやり方が通用するかどうかを試していました。

④ 取り組むことを決める

見立てた原因に対して、何を意識して取り組むかを決めます。ここで、選手と目指すものを揃えます。「なぜそうなったと思う?」「どうなったら成功?」「本当はどうしたい?」。選手が「力を抜くと負ける」と捉えていれば、「力を抜く」という取り組みは進みません。取り組むことと目指すものが二人で揃って、初めて練習に入れます。

それをどう伝え、どんな練習を組むかは、人それぞれでかまいません。ここは、指導者の特性と選手の状況が活きるところです。

⑤ 確かめる①:意識したとおりに、動きは変わったか

取り組んだら、まず、意識したとおりに動きが変わったかを確かめます。意識すれば体はそのとおりに動く、とは限りません。体には長い時間をかけて身についた動きがあり、頭で変えたつもりでも、その動きが顔を出すからです。

変わっていなければ、実行の問題です。記録で見えた二つ目の場面(意識しても、動きが変わらない)は、ここにあたります。

  • 違いを、本人が感じ取れていない → 「重い/軽い」「手が先/体が先」のように、二択で比べてもらう
  • やりたい動きを、やって見せられない → 言葉ではなく、体でゆっくり探す
  • 「今どこに力を入れた?」に答えられない → 形ではなく、中の感覚を一緒に探す
  • 条件が上がると崩れる → 条件を外して、できるところまで下げる。そこから一つずつ戻し、崩れる一つ手前を練習の場にする

これまでの成功体験や、常識として教わってきたことが、新しい動きを邪魔していることもあります。どう手立てを打つかは、人それぞれです。

変えるのは、一度に一つだけです。二つ同時に変えると、どちらが効いたのか分かりません。また、条件を外しすぎると、別の動きになることがあります。素振りでできたからといって、それがボールを打つ動きの答えになるとは限りません。

条件を上げて崩れるところを探すのも、下げてできるところを探すのも、やっていることは同じです。できる条件と、できない条件の境目を見つけることです。最初に記録をつけたときに見えていた「この条件ではできる、この条件では出ない」という形は、この境目のことだったのだと思います。

⑥ 確かめる②:課題となっていた点は改善されたか

動きが変わったら、次に、①で共通認識をとった課題が改善されたかを確かめます。ここで初めて、見立てていた原因が、本当の原因だったのかが分かります。

課題が改善されなければ、見立ての問題です。記録で見えた三つ目の場面(動きは変わったのに、結果が変わらない)は、ここにあたります。

  • 見立てが違う → 結果から時間を巻き戻し、別の出どころを探す
  • 見立てがあいまい → 「いつ」「どこが」「どのように」まで具体的にする
  • 原因の一つではあったが、主な原因ではなかった → ほかの候補を確かめる

どの場合も、②の観察に戻ります。課題が改善されたら、原因に近づいたと考えます。そのうえで、難易度を上げたり、別の場面でも課題が改善されているかを確かめます。直したことで、別の崩れが出ていないかも見ていきます。

二つの確認を分けることで、変わらないときに、それが「やれていない」からなのか、「やれているのに見立てが違う」からなのかが分かります。原因は、取り組みながら探し続けるものです。⑥から②に戻るこの繰り返しが、このフォーマットの中心にあります。

確かめた原因は、どこまで確かめたかをあわせて残します。

段階 確かめたこと
1 その条件で、変えたら結果が変わった
2 ほかの条件でも、同じ原因で説明できた
3 直したとき、別の崩れが出なかった

その場で確かめられるのは、多くの場合、段階1までです。段階2と3は、取り組みを重ねる中で確かめていきます。どの段階の原因なのかが分かっていれば、まだ仮のものだと、自分にも他の指導者にも伝わります。

記録の形

記録は、六つの段取りをそのまま残します。課題、観察、見立て、取り組むこと、変化、結果は、誰が書いても同じ項目で。どう伝えたか、どんな練習を組んだか、変わらなかったときにどんな手立てを打ったかは、自由に書きます。

  1. 課題:結果として何が起きているか
  2. 観察:身体・認知・意図。いつ、どこで。本人の言葉
  3. 見立て:原因の候補(いつ・どこが・どのように)
  4. 取り組むこと:何を意識するか。揃えた目指すもの
  5. 変化:意識したとおりに動きは変わったか
  6. 結果:課題は変わったか。どの段階まで確かめたか

サービスの選手の記録を、この形に並べるとこうなります。

項目 記録
課題 ボールがあると当てに行き、目的の振りが出ない
観察 素振りでは目的の動きが出る。ボールがあると、どう振っているか「分からない」。腕に意識を置くと、意識がボールに取られる
見立て ボールに当てようとする意識が、振りを変えている
取り組むこと 当てないつもりで振る
変化 当てないつもりでも、当てに行く(動きが変わらない=実行の問題)
結果 未。次は、空中の目標に向かって振る(意識の向け先をボールから外す)

この記録は、結果を残すためのものではありません。関わりと変化を残すためのものです。勝ったか負けたかではなく、この選手の、この条件で、この関わりをしたら、何が変わったのか。同じ選手の前と後を比べるので、もともとの力や練習時間の違いが混ざりにくくなります。

そして、空欄が、次に確かめることを教えてくれます。同じ形で残っていれば、他の指導者の記録と並べることもできます。どこまで確かめて、どこが未確認なのか。どこで同じで、どこで違ったのか。課題、観察、見立て、結果が同じ形で残っていれば、取り組み方の違いを比べ、学び合うことができます。

道順ではなく、座標

ここまで順番の話をしてきましたが、選手はこの順どおりには進みません。

同じ選手が、条件によって別の場所にいます。素振りでは像がある。ボールが入ると、自分がどう振っているか分からなくなる。「どこにいるか」は、選手の属性ではなく、選手と条件の組み合わせで決まります。

一人の選手の一つのテーマを10か月追ってみると、私自身も多くの場合、逆から辿っていました。条件をいじるところから入り、行き詰まり、最後に「本人は何を思っているのか」にたどり着いています。本人の状態も、一度できるようになった後で「原因が分からない」に戻り、行ったり来たりしています。

だから、このフォーマットは進む順番を決めるものではありません。いま自分が何を試しているのかを言うための言葉です。行ったり来たりしても構いません。どこを試したかが分かれば、次に試すことが分かります。そして、他の指導者にも伝えられます。

このフォーマットで言えること、言えないこと

言えること

一つひとつの問いには、運動学習の研究で分かっていることが下敷きにあります。たとえば、速く振ることと正確に当てることは、互いを削り合います。本人が自分の動きをどう感じているかを聞くことに意味があるのも、体が、動きの予測と実際のずれを手がかりにしているからです。だから、「この問いで、いまの状態が分かる」とは言えます。

そして、同じ手順で見れば、二人の指導者の見立ては近づくはずです。近づかなければ、どちらかが何かを見落としている。見立てを突き合わせられること。指導に再現性があるとすれば、同じ結果が出ることではなく、ここだと思います。

また、二つの確認を分けることで、変わらない理由が「実行」にあるのか、「見立て」にあるのかを切り分けられる、とも言えます。

言えないこと

  • 「だから、この練習が効く」とは言えません。研究が支えてくれるのは問いの妥当性までで、処方の有効性ではありません
  • 問いをこの順に並べたこと自体は、私の仮説です。研究から自動的に出てくるものではありません
  • 動きと、それに関わる捉え方までを扱います。やる気や自己認識の問題は別の層にあり、ここでは十分に扱えません
  • 意識を通す経路を前提にしています。体は、本人が気づかないまま調整されることもあります。言えるのは、意識を通して変えるなら、感じ取れている範囲でしか変えられない、ということまでです

だから、このフォーマットは正解としてではなく、検証されるべき仮説として出します。そのうえで、使い方ははっきり書きます。仮説だからこそ、合わなかった事例に価値があります。

楽しくなかった指導から

最初に、指導があまり楽しくなかった頃のことを書きました。相手のことを、自分ごとにできていなかった頃です。

いま振り返ると、指導の喜びは、自分のやり方が通用したときにはありませんでした。選手の中で何が起きているのかが見えて、本人と一緒にそれを見つけて、そこから何かが変わっていく。その過程に立ち会えたときのほうが、ずっと面白かった。変わらなかったときでさえ、「まだ見えていないものがある」と思えるうちは、次に確かめることがあります。

指導の本質が、相手の中で起きていることを見て、聞いて、一緒に見つけることにあるのなら、指導の喜びも、きっとそこにあるのだと思います。

フォーマットは、指導を窮屈にするためのものではありません。相手を自分ごとにし続けるための足場であり、その知恵を他の指導者と分かち合うための形です。

このフォーマットは、使ってみた記録で書き換えていきます。事例は事例の記事に、それぞれの問いの根拠は解説の記事に置きます。フォーマットに合わなかった事例も、合わなかったまま書きます。いずれは、他の指導者の記録で書き換えられるもの、知恵を出し合って一緒に育てていけるものになればと思っています。


指導の基本フォーマット v1.0(2026年11月)

参考

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